情熱発信原則原理の書1 草稿 わたしがわたしであるために

1章 わたしは誰なのか?

1.哀しさを忘れるため

2012年の春、わたしは一番大切にしていたものを手離した。

それは、10年来の「想い」だった。

以来、わたしの心から「哀しみ」は消えることはない。

 

わたしはその「哀しみ」を忘れるために動き始めた。

新しい人を探し、新しい場所を求めた。

でも、誰も何も彼に代わりにはなれなかった。

 

彼と付き合っていた10年間は、

わたしの想いは燃えっぱなしだった。

 

その火はわたし自身を焼き、

また、周囲の人も焼いた。

 

わたしを取り巻く多くの人を疲弊させ、

わたし自身をも消耗させた。

 

とうとう、わたしはその熱にフタをしてしまったのだ。

どうしても手に入れたかったものが、

そこまでしても手に入らなかったこと、

そのとき、どんな理由があったとしても、

自分の心は誤魔化せない。

逃げたのだ、諦めたのだという思いは拭いきれない。

決断をした、自分のために生きようと思った、

他に目を向けたくなった。

全部、後付である。
そして、一番わたしを傷つけたのは、

「彼が追ってこなかった」

ということ。

男らしく身を引いた、

あなたのためを思って身を引いた

そんなのは、なんの慰めにもならなかった。

「わたしは彼に捨てられたのだ」。

その思いがわたしの心を覆い尽くした。

 

その思いを拭うためには、

理由を本当にするしかなかった。

 

決断をした、自分のために生きると自分自身に言い聞かせ、

そうふるまい始めた。

太陽になると決めた。

 

それを言葉にして、自分自身を鼓舞した。

 

言葉が先なのか、行動が先なのか。

少しずつ思考や行動が近づいてきた。

 

本当に自分のために生きたくなりはじめた。

 

あそこまで熱く生きたことが、

逆に自身に繋がっている。

 

そして、2016年3月、わたしは一旦職場を退職し、

働き方を変え、WPラーニングを立ち上げた。

 

2 ワードプレスとわたし

ワードプレスは、以前から職場で使っていたので、

基本的なことは分かっていた。

ホームページをHTMLを打ち込んで1から作っていた時代があった。

内容よりもデザインや構造を構築方法を覚えるのが大変だった。

 

だから、ワードプレスを知ったときの衝撃はすごかった。

 

HTMLやCSSを覚えなくても、もう形になっている!

 

これは使える!

ホームページやブログを運営するときの一番のキモは「更新頻度」

制作は外注しても、更新は自分たちで管理していくもの。

 

でもそのために、高価なソフトを購入してくれとは言えない。

 

でもワードプレスなら、その必要はない。

万が一、エラーがあっても双方で確認できる。

 

そのことが可能性を拡げた。

 

そして、案外ワードプレスについて知りたがっている人が多い、

 

そのことがわたしを後押しした。

 

それで職場の体制が変わったのをきっかけに、

退職、委託事業スタッフとして、働き方を変え、

個人事業届を出した。

 

始めのころ、ワードプレスを教えるのは楽しかった。

それを通して多くの人たちと知り合うのも楽しかった。

たくさんの物語やドラマをみているみたいな感覚だった。

 

でも、ワードプレスに求めるものはそれぞれ違った。

純粋に表現を楽しむ人もいれば、効果や結果を期待する人たちもいる。

そのうちに、ワードプレスが独り歩きし始めたような感覚を覚え、

私は苦しくなった。

ワードプレス、ワードプレス、ワードプレス!

あんなに作るのが楽しかったワードプレスをわたしは嫌いになりかけていた。

でも、やはり魅了される。

そして、やはり多くの人にその魅力を伝えたい。

ワードプレスを教える人は他にもいる。

その人たちとわたしは何が違うのだろう?

伝えたいことと、実際の違和感が、ずっしりとわたしにのしかかっていた。

いつしか、わたしは発信をためた。

わたしの周りにいる人たちにだけ、ほそぼそと伝え始めた。

 

3.言葉の力

わたしが言葉の力を実感したのは、

一人のクライアントさんの言葉である。

彼女は毎日、一途にメッセージを発信続けていた。

そんなある日、

彼女がある文章を見せてくれた。

自分の中から湧き上がった言葉だという。

それは毎日書いているメッセージではなかった。

彼女の本当の心の声、

一番言いたかったことが、

言葉となって出てきたのだ。

吐き出す、とか、引き出すではない。

産み出すに近いかもしれない。

それを読んだとき、鳥肌がたった。

涙がでてきた。

その人から生まれる言葉にはなんて力があるのだろう。

わたしが聞きたいのは、ひとり一人のその言葉なのだ。

またその言葉は、

彼女自身も、今までのことは間違いではなかった、

と確信させてくれる。

わたしは、ひとり一人がその言葉を産み出すためにワードプレスを教えたかったのだ。

そして、ワードプレスラーニングの看板を下げ、

「情熱発信」と名前を変えた。

 

そして、わたし自身もブログを書き始めた。

「自分の想いは自分の言葉で伝えよう」

商品やサービス、活動は、自分の言葉で伝えるから意味がある。

そう伝え始めた。

自分の思い入れやこだわりは自分にしか分からない、

それに、書くということは、

最終的に自分にかえってくる。

だから、言葉を選ぼう、

そう伝え始めた。

言っていることは間違いない。

そう思っている。

でも、何かが空回りしている。

そう感じた。

 

情熱発信と言っているのに、

本当に熱い人たちをみると焦りを感じた。

わたしは熱くないのか?

どうすれば、熱さが大切だと伝わるのだろう?

そもそも熱さとは何なのか?

 

考えれば考えるほど、迷宮は大きくなっていく。

出口に出たと思っても、そこは出口ではなく入口だった。

逆走してきただけだった。

 

でも、ある日、とうとう熱はスパークする。

時々参加していた、異業種交流会、

朝活@とやまで、一気に熱が放電した。

 

進行役で

これまでの自分を語ることになったのである。

 

朝活@とやまでの進行役は何度か引き受けた。

そのほとんどがワードプレスやブログの話だった。

 

今回は自分のこと、

話す内容は決めていたが、

どう話そうかと決めたのは、その日の前夜。

 

作り始めたパワーポイントの資料を一切やめ、

原稿を書き始めた。

そして書きながら、いろいろな想いが胸をよぎった。

 

汚い字だと親に叱られ、作文を読んでもらえなかったこと、

悔し涙にくれて書き直した作文が学年代表になったこと、

初めて手にしたワードプロセッサー、

2.5HDフロッピーに書きつめた原稿。

そして、書き上げた瞬間の、

お腹の底から湧き上がる達成感と喜び

 

わたしは「書く」ことをようやく思い出したのだ。

そして、それは朝活会場で、熱い言葉となった。

思いは一気に放出し、最後は声が震えた。

自分の言葉に感動していた。

これが「情熱発信」なのだと体感した。

 

4、書くことこそが「わたし」だ

言葉には自分も人も動かす力がある。

だから、言葉と上手く付き合えば、

望む効果が得られる、

そう思い、わたしは言葉の力を伝え始めた。

 

また、書くことは誰かに伝えると同時に、自分の内面に入り込むこと、

どんな言葉でも書こう。

そう訴え始めた。

誰かの役にたとうなんて思わなくてもいい、

書きたいことを書けばいい。

今感じていることを書けばいい。

 

わたし自身、

いろいろなことを書いた。

伝えたいことや知ってほしいこと、考えたいこと、

書くネタがなくなったら、今目の前にあるものでもいい、

書くことによって、想いは動くから、

想いが動けば行動に繋がるから、

自分のために書こう、

そう呼びかけた。

また、ライティングセッションも開始。

言葉の中から、思いを見つけ出し、

さらに思いを深めてもらい、心を動かすセッションを行った。

 

でも、その奥には最大の森があった。

この「情熱発信」は、人々に何をもたらすのだろう?

これが明確でないと、人には進めるのは難しい。

コーチングでもカウンセリングでもない、セッション、

これをどう見ればいいのか?

 

言葉を産み出すことの意義は何なのか?

情熱を掘り出すとどんな好いことが起こるのか?

 

それが言葉にならないから、もどかしい。

思いはどんどん溢れてくる。

いろいろな想いが怒び出してくる。

 

それをただ吐き出すために書くのか?

 

そして、それと同時に気がついたことがある。

いつの間にか、わたしの「心」は書くことでいっぱいになっている。

 

彼にとって代わるモノ、

それは「書く」ことだった。

 

小学生の時、

泣きながら書き直した作文、

「ぼくの夢、わたしの夢」

 

最初の一文は今でも覚えている。

 

わたしの夢は作家になることです。

 

書くこと、それがわたしの「原点」だ。

 

第2章 わたしは何を憎んでいる人なのか?

わたしは何を愛している人なのか?

恋愛時代、誰にも負けない自信があったこと

それは、「あなたのことを誰よりも愛しているのは自分だ!」という自信。

あたりまえのことかもしれないけど、その点は譲れない、

そう思っていた。

 

考えてみれば、この相手の見えない負けず嫌いが、

すべての行動を決めている気がする。

 

例えば、好きな作家の本、これは全部を読み尽くしたい。

好きな俳優の出いているドラマ、これは全部観たい。

わたしの好きなモノのことをわたし以上に知っている人がいると、

その作家やタレントに申し訳なくて仕方がない。

その気持ちも誰よりも強いと思っている。

 

そして、その作家やタレントのことを、誰かが褒めるとうれしくなる。

うん、いいと思うよ、と言われると。

何故か、

「ね?わたしって目が高いでしょ」などと、変な自信がつくのだ。

 

逆にけなされると、自分のことのように腹が立つ。

そして、これも、

私以上に怒っている人はいないんだから!

 

と自信が増す。

 

だからわたしは、その人が好きなモノ、大切に思っているモノに関しては決してけなさない。

また、必要以上に干渉もしない。

 

それは、ただ好きとかそんなレベルだけではなく、そのひとの「命」そのものかもしれないのだ。

 

「そんな人のために、命をかけるの?」
「彼がそんなに大切なの?」

 

これはわたしにとっては禁句だった。

 

恋愛時代、どんなにバカなことをしても、

自分自身が責められるのはまだ我慢ができた。

 

でも一番悲しかったのは、

彼の存在を誰もが認めなかったことだ。

 

わたしが大切に思っているモノを否定することは、

わたし自身を否定することだ、と、わたし自身感じていた。

 

友達だと言いながら、わたしが大切に思っていることを理解しない、

わたしのためだと言いながら、わたしが大切にしたい想いを否定している、

 

それが哀しかった。

 

だって、他の人にはガラクタにしか見えないものも、

その人にとってはかけがえのない宝物かもしれないのだ。

 

どうしてその宝物を捨てろと言えるのだろうか?

 

 

自分が好きなモノ、大切なモノを守りたいという思いは、

もちろん今もわたしの根幹だ

 

今、わたしが一番大切にしているという「書く」ということ。

 

これを否定されたら、わたしの心は一瞬にして防御、反撃体制になる。

 

例えば日々書いているブログ「つまらない」と言われるのは我慢できる。

なるほど、この人はこんな記事に興味がないのだ、

なるほど、確かに今日の記事は読んでいてもつまらないな

と納得できるからだ。

でも、「つまらない記事は、書かないほうがいい」

これは許せない。

 

書くことがその人のアイディンティかもしれないのに、

どうしてそんなことが言えるのだろう?

 

否定されても、けなされても、意味がないと嗤われても、やめられないモノ、

踏みにじられたら、命をかけて戦うモノ、

失ったら生きていけないとさえ思うモノ、

 

わたしには「書く」とはそういうことなのだ

 

 

第3章 すべては「書く」ために

書き始めてから、しばらくすると、わたしの中で何かが動き始めた。

必要なモノと必要ではないモノの境界がみえてきたのである。

書くために必要なモノ以外は要らない、

そうさえ思えてきた。

何を書こうか考える時間、自分の想いに耽る時間、そして「情熱発信」について考える時間、

そして「書く時間」を確保していこうと考えた。

 

例えば着る服に迷わなくてもいいように、イメージを固め、それ以外のモノは一切捨てた。

書籍も同様、読んでいると自分の気持ちを熱くするものだけ遺した。

クルマも辞め、公共交通と自転車の生活に戻した。

また、暇つぶしと思考のリフレッシュにはジグソーパズルを使うことにした。

必要なピースを見つけて形にしていく作業は嫌いではないので、楽しみながら、思考の訓練にもなる。

 

無駄に出かける必要はない。

そのためにSNSがある。

会いたい人にはいつでもリアルに会える。

調子を合わせるだけの会話、物わかりのいいフリ、

そんなものはもう要らない。

 

わたしはわたしで行く。

そういうわたしを理解してくれる人たちだけでいい。

そういうわたしを必要としてくれる人たちにだけ届けばいい。

「情熱発信」は欲しい人たちにだけ届けばいい。

最初に欲しいといった人が、最初に何かを掴む。

その人が輝き始めれば、みんなが振り返る。

最初に実践をし始めた人が、何かを変える。

その変化をみんなが認める。

そして、だれもが「情熱発信」を求める。

そういう時代がこればいいと思っている。

何故なら、誰の心の中にも、必ず熱いモノがあって、

それにより、わたしたちは行動しているはずだから。

 

わたしは「哀しさ」を忘れるために動き始めた。
哀しさの下には「愛」がある。

それは成就できなかったわたしの想い

そして、今、もう一度別の形で動き始めた。

 

朝も昼も夜も、わたしは「情熱発信」のことを考えている。

これが「愛」でなくて何だろうか?

 

今、ようやく自分が少しずつ自分の本質に近づいている。

そう実感するのである。

 

そして、すべては「書く」ためである、と思っている。

 

 

第4章 情熱発信に集まる人々、

情熱発信に集まる人々は、

サービスも活動も様々である。

だから、話を聴いていると、新しい発見や気付きがある。

どんな人の話も情報も、決して無駄ではない。

そして、最終的には、誰もが同じことを願っている。

それは、ひとり一人が幸福に過ごすこと。

 

心の中に迷いがあるとき、

わたしたちは何かでヒントを探そうとする。

でも、自分の手持ちのカードからはヒントはなかなか見つからない。

でも、歌の中に自分の気持ちとぴったりのフレーズを見つけることはあるだろう。

全くの違うところから共通点を見い出すこともある。

 

だから方法にこだわる必要はない。

すべては同じ原則原理の上に成り立っているのだ。

そして、そこにある共通の想いは、

一人ひとりがもっと好い明日を目指すためにある、ということ。

 

だから、自分の熱さを掘り出す作業は何でもいい。

コーチングでも、カウンセリングでも、セラピーでも、

または瞑想でも占いでもなんでも

自分自身に合ったやり方で見つければいい、

 

わたしの場合は多くの人達からヒントをもらった。

まず歌詞だ。

友人の作ってくれた曲が、

情熱とは美しいモノだけではない!ということを思い出させてくれた。

そして、スピリチュアル的なメッセージは、
今までわたしが見ないようにしていたものを、示している。

また、ロジックも、わたし自身の矛盾点を教えてくれた。

ブログの読者は、なりたいわたしのイメージを映してくれた。

そしてクライアントさんは、わたしの歩いてきた道、

これから歩こうとしている道が間違いはない、と教えてくれた。

 

ようやく全てのピースが揃って、1つのカタチとなったのだ。