情熱発信原則原理の書2 草稿 わたしと言葉

性格は育った環境で作られるというが、

持って生まれた性質は変わらないと思う。

 

わたしの場合、インドア派

 

これは変わらないと思う

 

幼いころより、外に出て遊ぶことより、

本を読むのが好きだった。

 

体が弱く、入院生活が長かったけど、

もともとそういう気質だったので、

入院生活もそんなに苦ではなかった。

 

でも、「言葉」には、やたら敏感だったと思う。

 

どの物語にも、セリフには必ず意味や伏線がある。

あたりまえだが、物語の主人公は、

直接読者に感情をぶつけることはない。

主人公が感情をぶつけるのは、物語の中にいる人物だからだ。

 

幼いころは、誰でもその境界線が曖昧である。

 

ところがわたしの場合、今でもその境界線は曖昧だ。

 

現実な会話での言葉、

これは何を意図してたのだろう?

と考えてしまうのである。

 

言いたいことは分かる。

 

でも、何故こういう言い方をするのだろう?

 

それを考えたとき、

物語ではどこかのページにその答えはある。

でも、現実の会話の中で、そこまで踏み込むことが出来ないのである。

 

それで、思い込んで自己完了

 

こういう最悪のパターンをずっと踏んできた。

 

そして、もっと分かりやすく言ってくれたらいいのに、

 

そうも思ってきた。

 

でも、それはどちらが悪いわけではない。

どう伝えても、正しくは伝わらない場合はある。

また、正しくは受け止められない場合もある。

 

子どものころはそれが分からなかった。

 

なぜ、分かってくれないのだろう、とずっと悩んでいた。

 

そして、書くことを覚えた。

 

だって、みんなは、わたしの言葉は聞かないかもしれないけど、

物語だったら読むのだから。

 

わたしの言葉は届かないけど、

詩や感想文だったら、みんな聞くのだから。

 

でも、それはわたしも同じだ。

 

みんなの想いは分からない。

 

でも、物語や詩に係れている想いだったら

理解出来る。

 

だから、書けばいいのだ。

 

小学生の時、

創作童話の時間があった。

 

数人のグループで、1つの物語を作り、それをスライドショーとして発表した。

 

内容は覚えていないが、タイトルは覚えている。

 

「ポケットの森」

 

わたしが提案したタイトルだった。

 

いろいろなアイデアが出ていたがまとまらず、そのまとまらなさを直感的に言葉に出たのだと思う。

 

言葉は直感的に出てくる場合もある。

 

多分、わたしの作家になりたいという想いは、この頃から芽生え始めたのだと思う。

 

いろいろな本を読むうちに、

面白いことに気付いた。

 

ストーリーが好きな本と、登場人物が好きな本がある。

 

ストーリーも登場人物像も面白い小説は名著である。

 

登場人物がストーリーを面白くしているのかもしれない。

 

そして、それはセリフで決まる。

 

そう考えた。

 

セリフだけの本、

それはシナリオだ。

 

そして、わたしの興味は演劇へと移って行った。

 

初めての演劇経験は、

小学生の時だった。

5年生になり、わたしは演劇部へ入った。

当初、顧問は以前の担任でもあり、家族に女優がいる先生だったので、

指導はきつかった。

でも、ただの一文に感情が入り、それが人格を作る。

そして「言葉」となる。

その過程が面白かった。

 

そして、高校に

入学と同時に演劇部に所属。

高校演劇は特にメッセージ性が強く、

セリフ1つ1つに熱が入った。

 

高校を卒業して、短大に進んだが、

演劇は続けたかった、

 

ツテを頼って、

近くの大学の劇団を紹介してもらった。
最初の演目は決まっていて、

既に練習が始まっていた。

演者も決まっていた。

そこでは音響係が不足していたので、

音響のお手伝いをした。

 

表現とは「言葉」だけではない。

音と光とセットが一体となって、世界観を造りだす。

新しい世界が生まれる。

自分を表現する楽しさ、

これを知った。

 

でも、音と光りだけでは世界をイメージさせても、

想いは伝わらない

メッセージは伝わらない。

 

音と光があるから

台詞が生きてくるのである。

 

わたしが伝えたいのはわたしの世界観ではなく、

わたしの世界観を通じて発信するメッセージ、想いである。

 

ずっと聞いてもらいたかったわたし自身の言葉、

ずっと届けたかったわたし自身の想い

 

だから、それはわたし自身の中から出てくるセリフではないといけない。

 

心のどこかがそれを告げていた。

 

短大卒業後もお芝居に関わっていた時期がある。

でも、正直、

それは伝えたい想いがあったからではない。

届けたい言葉があったからでもない。

 

わたしがわたしでいるための時間と言うよりも、

何かに属していたい、

仲間たちと何かを成し遂げたいという、

社会的欲求を満たす場所だったのだ。

 

でも、何かを表現したいという思いはずっとあった。

だから写真を学んだ。

 

でも、いざカメラを手にしても、

本当に映したいモノは何か分からなかった。

 

社会的欲求をみたすため、

わたしは自分の言葉、自分の想いを見失っていたのかもしれない。

 

そして、あの日、あの夜、

わたしは彼と出会ってしまったのである。

 

恋人がほしい

 

それは社会的欲求だ。

 

でも、彼はそんなわたしの概念を吹き飛ばした。

 

もう、これが世間でいう恋人かどうかなんてわからない。

そんなことはどうでもいい、

ただ、彼が欲しい。

 

頭の中にはもう彼しかいない。

それだけのために生きている。

 

それなのに、届けたい想いは言葉にならない。

伝えたい想いは届かない。

 

あれから10年近くがたち、

ようやく言える。

 

わたしは哀しいよ。

 

これが言いたかった

 

「お金がなくて困っているのに、どうしてまたスロットに行くの?
それが哀しいよ」

「お前にはもう心配かけない、って言ったのに、どうしてまたそんなことをしたの?

それが哀しいよ」

 

それが哀しいよ

 

これだけのことが言えなかった。

 

文章では書けるのに。

 

「彼女は哀しそうにつぶやいた」

 

こう書くのは簡単なのに。

 

本当に伝えたい想い

 

これを言葉にするのは難しい。

でも、これを伝えないと意味がない。

 

どう伝えても、正しくは伝わらない場合はある。

また、正しくは受け止められない場合もある。

 

だからこそ言葉にしなければならないのは、

本当に伝えたい想いなのだ。

 

言えなかったら書けばいい。

言葉にならなかったら、表現すればいい。

 

それが伝えることだと思う。

 

そして、それが伝わったとき、

何かが動く。

 

誰かの心が動くかもしれない。

自分の心が動くかもしれない。

 

心が動いた結果、その人は新しい何かを得るだろう。

気付きなのか、何なのか、

それは知りようがない。

 

受け止め方はそれぞれだ。

 

 

インターネット技術の発展とともに、

多くの人たちが、自分を表現することを楽しみ始めた。

新しい言葉もたくさん生まれた。

「流行語大賞」という新しい文化も生まれた。

 

そして、それは「収益」に繋がる

ということに、人は気付いた。

通信販売はコストの係るカタログから、ネット上の店舗に変わった。

 

インターネットを使えば、幅広く宣伝できる。

だって、世界中の人たちが見ているのだから。

 

でも、それは錯覚だ。

 

何故ならインターネットは、検索しなければ表示すらされないのである。

 

でも、上手くやっている人はやっている。

ネット上で売り上げを上げている人たち。

その人たちは言葉を上手に操って、

読者の購買意欲を駆りたて、売り上げを増やしている。

また、興味を引く言葉や画像を駆使し、

注目を集め、アクセス数を上げている。

 

ああいう風に書けば売り上げが上がるのだ。

こういう風に書けば、みんなに読んでもらえるのだ。

 

そう思い込んだ人たちによって、

インターネットの世界はあっという間に埋め尽くされてしまった。

 

同じようなブログ、

同じ内容の記事、同じ書き方。

 

どれを読んでも、何処が違うのか、区別がつかない。

消費者たちは迷う。

だったら、検索して最初に出てくるのでいい。

後はどれを見ても同じだから。

同じ言葉だから。

区別がつかないから。

1番上か2番目に表示されるのだったら間違いないだろう

世間はこう考える。

 

だから、人々は、検索上位に上げる方法を考え始めた。

 

結果、本当の言葉はどんどん埋もれていくことになった。

検索にあがらないと、読んでももらえない。

でも、検索にあがっても、自分だと識別してもらえない。

 

わたしたちは、そういう言葉の海の中に埋もれているのである。

 

 

でも、だったら遠慮することはないのである。

どうせ言葉の海の中に埋もれているのだから、

言いたいことを言えばいい。

書きたいことを書けばいい。

そのほうが、スッキリする。

人ごみで叫んでも、

どうせ言葉は響かない。

でも、声をだすことによって、

自分の気持ちはスッキリする。

 

それでいいではないか。

 

気持ちがスッキリすれば、また頑張れる。

 

言いたいことがあれば、思いっきり叫べばいい。

 

それはまるで街角で歌うミュージシャンだ。

 

CDは出せなくても、誰かが足を止めればそこはライブ会場となる。

テレビ出演できなくても、誰かがYouTubeを見れば、

その人は視聴者だ。

 

そうやって歌い続ける人たちもいる。

 

わたしたち、ひとり一人がそうなればいい。

 

わたしたち一人ひとりを識別するのは、

まぎれもなく、ひとり一人から溢れ出る想いと言葉なのだから。

 

 

そして、言葉は今、ますます重要な役割を持ち始めた。

 

インターネットを使ったビジネスが主流となった今、
言葉はますます重要な和区割りを持ち始めた。

 

言葉というより、「単語」が独り歩きしはじめたのだ。

 

わたしは言葉自体に敏感すぎる。

 

時々そう言われる。

自分でも、過剰に反応する場合がある。

 

わたしが聞きたいのは用語や単語ではなく、

言葉なのだ。

 

一人ひとりの持つ思考の表現なのだ。

 

単語や用語はその一例に過ぎない。

 

 

そして、それを伝えるため、

わたしは昨年以来、ブログを書き始めた。

 

言葉について、

想いについて、

表現することについて、

そして、大好きなことをすることの意味について

 

誰が読んでいるとか、

誰に読まれたいと思っているとかは、

正直あまり考えてはいない。

 

何故なら、
一人、立ち止まって聞いてくれる人がいたら、
その人の為に歌うミュージシャンのようでありたいと思っているから。

 

わたしの言葉を一人でも聴きたいと思う人がいるなら

その人のために書き続けたいと思っているから。

 

わたしの「言葉」に対する想いを、

わたしの大好きな書くことで伝える。

 

これに勝ることはない。

 

だから、わたしは書き続けられるのだと思っている。