情熱発信原則原理の書3、草稿、強く生きること、それは祖母から教わった生き方だった。

人間を最も強くさせるもの、それは信じる力だ。

人は、信じるモノがあるからこそ、

それを守るために、

誰よりも強くなれる。

 

そして、何を信じるのかを

選び決めてきたのは自分自身なのである。

 

自分自身、信じると決めたものを、

信じないでどうして自分を信じることが出来るだろう。

 

信じるとは、結果をもきちんと受けとめるコト

 

結果を受け止める覚悟がないのに、

どうして信じ抜けるだろう。

 

わたしはその強さを祖母から教わった。

 

祖母は強い人だった。

 

祖母は大きな農家の家の次女として生まれた。

自由に元気良く育ち、

女学校までださせてもらったので、

当時としてはめぐまれていたのだと思う。

 

賢く、活発な女性だったようで、

卒業後は教師になったようだ。

 

「二十四の瞳」を思わせる写真が、

祖母のアルバムにあった。

 

やがて祖母は、

小さな商店を営む祖父に嫁いだ、

 

そして、二人の娘を持った。

それがわたしの母である。

 

だが、まだ幼かった長女が、

病気で他界、

 

そして日本は第二次世界大戦のさ中、

 

ほどなく祖父も他界、

 

祖母は、女手1つで母を育てることになった。

 

商売は決してラクではなかった。

 

人の好い祖母は、お客さんに言われるままに

マケたり、ツケで売っていたらしい。

幼い母を連れて月末に集金に1軒1軒

訪ねて回っていたらしい。

母は、自分はお給料のもらえる仕事に就こうと、

幼い心に思ったと、言っている。

 

やがて、苦労の末に、

母は大学を卒業、

教職に就いた。

 

そしてわたしの父と結婚。

 

だけど、父の家には両親と祖母が住んでいたため、

共稼ぎの両親が子供を育てられる環境ではなかった。

 

そのため、母は生まれたばかりの私を、

その祖母に預けた。

 

祖母が、わたしそして妹の母代りになったのである。

 

わたしと妹は保育所に入るまでの間、

祖母の家で育った。

 

わたしが小学校2年生、

姉は4年生になる年、

両親がマイホームを建てた。

 

そして、祖母もそのとき、

保育所に入る予定の妹と一緒に

商店を引き払い、一緒に暮らすことになった。

 

それから、92歳の人生を終えるまで、

ずっと生活を共にしたのである。

 

両親と一緒に暮らし始めても、

祖母はわたしたちにとっては母親代わりだった。

 

学校から帰るといつも祖母がいた。

おやつを用意して待っていてくれた。

 

仕事でギリギリに帰ってくる母に代わって、

家の一切の家事は祖母が行っていた。

 

特に妹は、

結婚するその日まで、祖母と一緒に暮らしていたことになる。

 

そうしたなか、

わたしは中学2年生の時、不登校児になった。

 

学校に行かずに家に居るわたしを見て、

祖母はどう思っていたのだろうか・

 

一度祖母とケンカして、外に飛び出したときがある。
祖母の

「学校にも行っていないくせに!」

その一言にカッとなって、家を飛び出したのだ。

 

どこにも行き場がなくて家に帰ると、祖母は泣きそうな顔をしていた。

そして、

「堪忍ね、ばーちゃんが言い過ぎた、よかった、早く帰ってきてよかった」

泣きながらそう謝ってきた。

 

その時に感じた思いは何とも表現しようがない。

罪悪感とか、そんなものだったのかもしれない。

 

そして、

「このことはお母さんには言わんといてね」

こう言った。

 

そのとき、初めて祖母の立場が分かった気がした。

 

やがて、

姉と私は県外の大学に進学、

 

妹も手がかからなくなり始めると、

心に穴が開いたのか、

祖母はうつ病になった。

 

留守がちな母は、祖母を一人にしておけないと言って、

入院させたこともあった。

 

でも、わたしたちが戻ってきたころには祖母も落ち着き、

穏やかな生活が続きました。

 

やがて妹や姉が結婚、出産,

 

その時には母も退職していて、祖母は家事からも隠居していた。

 

 

父が突然倒れたとき、

側にいたのは祖母だった。

必死で近所の家に駆け込み、救急車を呼んでもらった。

そして、病院に一緒に来た。

 

その日のうちに父は他界した。

 

父が他界した年の冬、

その祖母が倒れた。

トイレで動けなくなっているところを母が見つけ、

病院へ連れて行った。

 

意識が混濁した状態の祖母を、

母とわたしだけで介護は無理だと判断。

 

近くの主治医が病院を紹介してくれた。

祖母は入院することになった。

 

適切な処置のおかげで、

祖母の意識がはっきりと戻ってきた。

 

トイレで倒れてから数日のことを

あまり覚えていないらしく、

祖母は不思議がっていた。

 

そして、それから3年あまり、

命を引き取るその時まで、祖母は病院で過ごした。

 

家に連れて帰ってあげることは

出来なかった。

 

祖母が入院している間、

わたしと母はほぼ毎週のように祖母に会いにいった。

 

「また来てくれたん?」

祖母は嬉しそうにそう言った。

 

でも、家に帰りたいとは一度も言葉にしなかった。

 

そして、祖母の亡くなる1週間前、

わたしは新しい毛布を届けた。

 

祖母は気持ちよくなったとうれしそうだった。

「ありがとうね」

と言った。

 

それが元気な祖母を見た最後だった。

 

数日後の深夜、祖母の容態が急変したと連絡を受け、

わたしと母は病院へ急いだ。

 

酸素マスクをした祖母に、わたしたちは声をかけ、

様子を見守った。

 

それから数時間後、

祖母は駆け抜けるようにして最後の瞬間を迎えた。

 

 

わたしは祖母の一生を考えると、

胸が苦しくなる。
娘とダンナを失った悲しみの中で何を見出したのだろう?

その後の貧しさの中で、祖母は何を望んだのだろう?

そして、わたしたちと一緒に住むことになったとき、

祖母は何を見つけようと思ったのか?

そして、最後の余生を病院のベッドの上で過ごした祖母は、

自分の人生をどう考えたのだろう?

 

昔、わたしが自分の進路のことで大ゲンカをしたことがある。

わたしは

「夢も希望もない人生なんて生きたくない!」

みたいなことを口走ったとき、

父は

「夢や希望は誰にでもある、ばーちゃんにもある」

そう言った。

祖母は静かに笑っていた。

 

その祖母の内なる想いの一厘に触れたのは、

祖母の葬儀のときである。

 

祖母はクリスチャンだったので、

葬儀は教会で執り行った。

 

その時に、

牧師が祖母の手記を読んでくれたのである。

わたしたちも知らない手記だった。

 

「娘とダンナを失い哀しみに沈んでいたこと.、

その時に近くの公民館でキリスト教の礼拝が執り行われていたこと、

そこでのお話しが心に響き、信者になろうと思ったこと、」

 

 

今になってようやくわかった。

祖母は、自らの支えにキリスト教を選んだ。

そして、自分が選んだからこそ、何があっても委ねようと決心した。

だから、どんな環境においても、

全てを受け入れることができたのだ。

それが、強く生きるということなのだ。

 

わたしはずっと強くなりたいと思って生きてきた。

それは、祖母が自分の生涯を賭けて、

その強さを教えてくれたからだ。

 

でも、その「強さ」とは何なのか、

それを理解していなかった。

 

わたしは自分の情熱を燃やしながら生きることを選んだ。

そして、その素晴らしさを伝えたいと想っている。

自分の夢を叶えるのは、

自分自身を変えていく力となるのは、

自分の中にある情熱だと知っている。

でも、わたしは本当に自分の中の「情熱」を信じているのだろうか?

それにすべてを掛ける覚悟はあるのだろうか?

そして、その結果を受け入れる覚悟はあるのだろうか?

祖母のことをこうして思い出すたびに、

わたしは自分自身に問い続けていこうと思う。