情熱発信原則原理の書〜最終章

誰もがそれぞれに理想等する生き方がある。
誰もがそれぞれ理想とする在り方がある。

そのために今を生きていっているといってもいい。

でも、もしかしたら、
全く想い描いていない中に、
自分たちの輝かしい未来がある場合もある。

結局は、わたしたちの未来は全くの白紙なのだ。

幼いころ、
それぞれに夢があったはずだ。
こんな大人になりたい、こんな仕事をしたい!
と思って育ってきたはず。

もし、今の自分がそれとかけ離れているとしても、
今の自分も、そう捨てたもんではないはず。

もし、今の自分が、あのころなりたい大人ではなく、
むしろ、あのころなりたくなかった大人になっていたとしたら、
問題はそこだと思う。

なりたい大人ではなくても、そこそこな大人になっていたのなら、
それはそれで充分だと思う。

大切なのは在り方ではなく、生き方である。

何になったのかではなく、
何を成し遂げたのか?

それは仕事だけとは限らない。

例えば子育てだって一緒だと思う。

親になったのではなく、
どう子供を育てたのか?

●●会社に就職した、のではなく、
どんな仕事をしてきたのか?

どんな営業業績を残したのかのではなく、
どんなサービスを社会に提供してきたのか?

それを過去の自分に問うべきなのだ。

そして、未来の自分とは、
決して新しく生まれるものではなく、
今の自分の延長線上にあるのに過ぎない。

私たちが見ているビジョンは、
自分が今までに歩いてきた道の先に見える風景だ。

そしてそのもう一つ先には
全く白紙の未来がある。

そうやって、生きていくのではないだろうか?

もう一つ先の未来は見えない。
でも、そこがどんな世界であっても、
そこに確実に存在しているのは、
唯一無二の自分自身だけ。
それだけは間違いない。
だから、生き方だけは自分で決めることが出来る。

だったら見えない未来を考えるより、
自分自身を信じればいい。
今、見えているビジョンだけ見ればいい。

そうすれば、
不安になることもないだろう。
期待しすぎることもないだろう。

わたしにとって生きるとは「書く」ことだと思っている。

子供のころ、作家になるのが夢だった。

パソコンなんて当然なくて、
ブログというジャンルもなかった。
それでも書いていた。
手書きの原稿用紙で書いていたものを、
友人たちに回し読みしていた。

ライトノベルの新人賞に応募しようと思って
原稿用紙、100枚に書いたこともある。

最後の1行を書き終わった時の
お腹の底からゾクゾクと沸き起こる高揚感、

これがやみつきになるのだ。

やがて芝居を始めるようになると、
書きたいものは戯曲や脚本へと変わった。

これはこれで面白かった。

でも、戯曲や脚本には限界があった。
なぜなら、いくら書いても舞台にならなければ完成しないからだ。

そして、いつしかわたしは「書く」ことを忘れてしまっていた。

ようやく思い出したのは
「情熱発信」を始めてからである。

そして今もこうして書いている。

これがどう続いていくのか、
これから、何を書いていくのか、
先は全く見えない。

このさき、どんなことがあっても
「書く」ことを忘れることはないだろう。

子供のころ、描いていた夢とはちがうけど、
今の自分も、そう悪くはない。

描いている一つ先の未来にたどり着くころには
また違ったものを書いているかもしれない。

果てしなく続く、
物語の結末は自分では見ることはできない。
それを読む人の心に何を残すのかは自分で決めることが出来る。

わたしの進んだ道が、真っ直ぐに伸び、
そして限りなく熱い道でありたいと思う。

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